当寺院は、豊臣秀吉が死去した年にあたる慶長三年(1598)、祈祷僧である清心法印によって開山。 江戸城外濠工事のため、幕府に替地として与えられた四谷に移転し、その後、 本堂と観音堂が失われてしまったものの、天保八年(1837)に再建。 その頃に描かれた『江戸名所図会』では、「四谷の四名所の一つ」に数えられています。
昭和二十年五月、空襲によって当寺院はふたたび烏有に帰しましたが、戦後に再建。 昭和四六年に、現在の寺院に生まれ変わりました。 東京の土地事情を鑑み、当時としては珍しい室内墓地−四谷霊廟−を全国に先駆けて建立しました。
当山は「御府内八十八ヶ所」の第三十九番札所であり、また潮干観音は「江戸三十三観音」の 第十八番札所の本尊様です。さらに薬師如来は「関東九十一薬師霊場」の第十三番札所の本尊様であり、 難病を抱えた人々の救済寺として、毎日多くの方々にご参拝いただいております。
【戦前の真成院】
【四谷霊廟】
【観音坂】
先代、隆弘師は信心に生きた実践の人でした。先師は十六歳で、当時不治の病といわれた脊髄カリエスに罹り、 この苦しみから何とか救われたいと出家し、高野山に上がられました。
高野山大学の学生になった頃から祈りの生活が始まり、爾来八十歳で遷化するまで菩提心を持し、 法を求める人が来れば相談に乗り、悩みを聞き、一緒に祈る毎日でした。師は自らの体験から、 弘法大師が説かれた「正純密教」こそ、人々が在家のままで救われる道であると喝破されました。その実践が、 すなわち加持です。 先代の願いは、迷い苦しむ人々を一人でも多く、正純密教によって救う事にありましたが、なかなか理解されませんでした。
昭和五十年には一般在家の方に解りやすく密教を説くため、信者団体「密門会」を組織し、 いままでに二十数冊を超える著書を著しました。
昭和五十七年、故郷である青森に宗派の枠を超えた青龍寺を建立し日本最大の青銅製大日如来「昭和大佛」、 「金堂」を建立しました。その努力は晩年を迎えた頃になって、ようやく実を結びはじめたといえます。
【先代 織田隆弘師】
【昭和大仏】
江戸三十三観音第十八番札所 汐干観音 金鶏山 真成院
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